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2018年8月 8日 (水)

LINE事始め

 これまでLINEなるものとは距離をおいてきたが、高校教師時代の生徒たちとのOB/OG会でこれから連絡を取り合うのに便利ということになり、今さらだが、LINEのグループに参加することになった。

 かつて、Twitter事始めでは、144文字の制約に挑戦する勢いで始めたが、LINEとなると、チャットを思わせるスピード感に、今は慣れるのに精いっぱい。
 やれアルバムだ、やれスタンプだ、と次々にツールの理解に追われる昨日、今日という有様。

 何より驚くのが、短いことばのやりとりで済んでしまう 「LINE文化」 ともいうべきコミュニケーションスタイルである。これは時代の反映だろうか?

 以下、3つの観点で、ちょっとだけ考えたことを整理しよう。

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 まず、LINE世代の人たちは、議論するということに期待していない、いや絶望さえしているかもしれないと思えること。

 社会の議論は、うっとうしく、正直、空しさを感じているかもしれない。

 国会の議論を見ていても、何ら建設的な熟議になっておらず、足の引っ張り合いで傷つけあっている。。

 そんなものより、個々の理解を大切にし、もっとつながりを大切にできるコミュニケーションの方が、空虚な論争より実のある行動につながるのだ・・・。
 こんな批判的価値観を感じた。

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 次に、ことばが短いことにこそ、活路がある。

 散文の世界で言えば、長々とした詩歌より俳句。
17文字で描く世界は、充分に心がこもり美しいじゃないか。

 私も144文字のツイッターの世界が大好きである。

 議論で対立を招くより、短いやりとりにこそ、先に書いたコミュニケーションの真実があるのだと無意識に感じているのではないか。

 短いからこその誤解もありうるが、バーチャルな世界は程々にして、現実空間を共有する世界を大切にすること、ここにほんもののつながりを見出そうとするのが新しいコミュニケーション感覚なのかもしれない。
 こんな代替する価値観を感じている。

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 最後に、以上を踏まえて私見を整理すれば、
この世の議論のあり方は変革が問われていると思われる。

 真に建設的な話し合いとは?が改めて問われなければならない。

 私の仮説は、その解を 「対話」 に求めるところにある。
 世の中、本当は対話を求めているのに、その対話が成立していないことが根源にあるということ。。

 ここで 「対話」 とは、言うまでもなく、単なるトークではない。ディスカッションでもない。
ダイアログである。

 LINEのコミュニケーションは、ことばの簡単なやりとりでも高みにいざない合うことを可能
にする対話を求めているように感じた。これが私の仮説的結論だ。

 ただし、この批判からの創造には前提がある。
(私は現在、民間の国語教育に従事しているのだが) 私たちの国語力の強化が伴うことも見つめなければならない。

 つまり、論理的思考力が伴って 「対話 (ダイアログ) 」 がある。
勿論、ここで重要なのは、単なる論理でなくて、共感を伴う人間的な論理。
そのことは、日本の国語教育の克服すべき課題でもあるだろう。

 そして、これに対しては、新指導要領が論理国語の変革を促していることからも、新しい展望が見えてきている。

 日本に、真のコミュニケーション文化が成熟する日は思ったより近いかもしれない。


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