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2017年6月13日 (火)

共謀罪と人生論

 共謀罪法案がいよいよ大詰めにある。
ことここに及んで、さまざまな思いがかけめぐっている。
共謀罪~治安維持法~人生論ノート~歎異抄   ・・・・。

 共謀罪については国連特別報告者より 「プライバシーや表現の自由を侵害する」 との懸念が表明されている。

 これに対し政府は、「正確に理解されておらず遺憾」 としているが、国連中心主義の我が国が国連側の警告を無視し、謙虚に身の振り方を見直すのでなく反発する ”独りよがり” は怖い。
 現に日本国内でも、言論に関わる知識人をはじめとして様々な抗議が世論となっているではないか。

 怖いのは、法律は歯止めの法的根拠がないと恣意的に暴走する可能性があることだ。

 たとえば、2000年施行の 「通信傍受法」 では、憲法の通信の秘密の保障する法的根拠として、対象が限定され、裁判所の許可を要するとしている。
 今回の共謀罪法案には、こうした法的根拠がない。ゆえに、恣意的な暴走の危険性を秘めている。国連特別報告者の懸念も、こうした憲法違反への警告と受け取れる。
 もうすでに、放送法の恣意的適用の可能性は政府の姿勢となって現れている。
特定機密保護法でも報道を委縮させる方向に動いている。

 昨日のテレビ朝日 「橋下×羽鳥の番組」 では、別の観点の指摘が印象に残った。
つまり、共謀罪法案は今までより踏み込んで準備段階を対象とすることでテロを事前に防止できるとしているが、通信傍受は今まで通りとするとテロを防ぎきることはできないという本音の指摘だった。
 その他、すべてのテロ行為に有効と言えないことを考慮すると、歯止めの法的根拠がない怖さに加えて、国民を監視するばかりの憲法違反ばかりが際立ってしまう。

 こうした点を、しっかりと深める国会論議を切に求めるが、何と碌な審議もないまま、時間切れ採決だという。あきれるしかない。

 今回の法案は、かつての 「治安維持法」 にたとえられる。
 当時、国体護持は当然で思想弾圧に当たらないとされたが、戦時体制下で恣意的に暴走し、人権弾圧の道具となった。

 私がその思想に共感する三木清も、結局、この治安維持法に殺されたのである。
彼は、弾圧という現実の中で人間としていかに生きるかを洞察したゆえに、彼の 『人生論ノート』 には深い哲学がある。

 そこには、自分自身を見失わずに生きることが最高の幸せという幸福論がある。
自己保身の偽善を戒める生き方がある。
空しい虚無に陥ることなく自己を形成することそのものが人生であるいう人生観がある。
そして、たとえいつどこで人生を終えようとも、それまで形成されてきたもの=生きた瞬間・瞬間の積み重ねは完成しているという死生観がある。

 三木は、この弾圧の試練のなかでこそ普遍に到達したが、できれば、試練とは、弾圧が死までも迫るものでなく、自らが自分の道を突き詰めるなかでの試練であるべき。。


 三木は、親鸞の 『歎異抄』 に深い影響を受けていたが、それは時の権力の弾圧と闘った姿としてばかりでなく、自分の生き方を貫ける世の中で、時の権力より、自分自身の壁と向き合う姿でありたいと願っていただろう。
 そこでは、不完全で相対的な自己を謙虚に見つめ直し、かつ絶対的なものを求め続ける生き方が生まれてくると私は思う。

 三木が、あの時代にも 「夢」 をもっていたと同様に、いつの時代も厳しさが伴うなかで、そこでの 「夢」 を見失わないことが重要なのだ。

 政治は、全体の目先の安全管理に傾くことで大切なものを見失うのでなく、国民一人ひとりの自己実現に寄与するものであってほしいと願う。


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