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2016年12月13日 (火)

PISA型教育の質を問う

 PISA (國際学習到達度調査) を意識するかたちの取り組みが広がりつつある。
思考力・判断力・表現力などの養成はかつてから 「新しい学力観」 の軸だった。
したがって、特別な 「PISAのための教育」 ではないはずだ。

 新しい 「PISA型」 教育は、生徒の主体的な学びを重視し、他者の意見を正確に理解し、自分の考えを論理的に表現できる力を育成ことをめざしている。

 そこには既成の解よりも大切なものをみている。社会に出たら、正解のない課題に直面することが多いのであり、そのときに問題を発見し、それを課題として解決する力が重要になるということだ。

 これこそが、「生きるための知識と技能」 と定義される学力である。
こうした現実に「生きる力」となる学力のために有効とされているのが、討論やグループ学習だ。

 前者は 「ディベート」、後者は 「アクティブ・ラーニング」 として授業実践される。

 しかしながら、こうした学習は、私 (正確には開発教育での私たち) は、すでに25年前に実践していたものであることを強調したい。

 たとえば、私は1990年代の 「開発教育ワークショップ」 を10年間ほど企画・運営していたが、その際の重要な方法論は、総称 「参加型」 であり、その一環で、討論の手法としてディベートに取り組んでいた。

 もちろん開発教育だけではない。
明治図書などの出版物にも多くの書籍が出されていた。
しかし残念ながら、それらは一部の教師間の流行だった。
 受験勉強の授業に対するアンチテーゼに終わった。

 社会が (時代が)、まだ、そうした教育を求めていなかった。
現に、私の実践は、受験に対応しない教育として白い目で見られていたと思う。

 誤解のないように書いておくと、知識は重要である。
「参加型」 の授業を深めるとは、主体的な学び方だけでは足りない。
主体的な学びの基礎として、必要十分な 「基礎知識」 が不可欠である。
そのうえで、いかに 「深い授業」 を展開するかが大きなテーマだった。

 教育史的には、戦後の社会科教育が 「はいまわる経験主義」 と批判されたことをいかに克服するかである。

 今日のアクティブ・ラーニング主導の 「PISA型」 教育は、私たちの実践を踏み台にして、時代に即応した新しい教育が広がりつつあると信じたい。

 入試も、そうした本質に対応して、思考力重視になってきていることも事実だろう。
歩みは遅々としたものだとつくづく思うが、教育は 「らせん型」 に進歩するに違いない。

 そして、こうした取り組みが、総じてグローバルスタンダードな学力を育てるだろう。

 ただ、ここでひとつ、私の経験的帰結を付け加えておきたい。

 論理的表現力の手法としての討論(ディベート)は大切だが、それをもう一歩進める視点もぜひ意識すべきだ。

 これは、相手を説き伏せる、あるいは論破する力を超える力である。
相手の意見を十二分に理解し、自分の意見の足りない面を補う心構え。

 これが対話というものである。
つまり、英知にいたる ”ダイアログ” だ。

 これは、人間の不完全性を前提として、みんなで創る合意形成につながっている。

 こうした 「対話の文化」 は、まだ一般に普及していない。
国会の討論も、互いに自分だけが正しいと主張し合っており、ま逆だ。

 私は、ディベートを実践した折、必ず、その結論をみんなで柔軟に修正する時間をとっていた。それによって、たいていはより良いと納得できる結論 (合意形成) にいたった。
そんなひと手間で、生徒の合意形成力は見違えるように変わった。

 こうした論理的意見交換を大切にしつつも、対話の文化を担う日本人を育てるのは教育の力である。

 私は、対話は日本人に向いているゆえに、今後の子どもたちの意見表明の権利の進展を期待し、また信じている。

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