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2016年11月23日 (水)

対話の文化

 生活クラブ機関誌 『生活と自治』 (2016年12月号) の 「この人に、このテーマ」 という記事で、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院の中島岳志氏がインタビューを受けている。
見出しは 「他者とわかり合い、社会を支えていくために」 とあるが、内容は私の探求してきた課題と重なるものを感じた。

 近代思想史を専門とする中島氏は、18世紀の英国の思想家エドマンド・バークを紹介しながら、「保守」 の定義から話し始めている。

 人間社会は理性をもって理想的な人間社会を実現することができる。けれども、人間はどんなに頭がよくても、あらゆることを知って、必ず正しい判断ができる存在ではない。知的にもまた倫理的にも完全はない人間が創る社会は不完全ではないかという思想だ。

 ゆえに、必要なのは、頭のよいリーダーの構想よりも、長い時間をかけて歴史の風雪に耐え、多くの人びとのフィルターを通して残ってきた良識・社会習慣などに依拠するあり方である。これが 「保守」 だ。
 ただし、世の中は変わっていく。保守は大切なものを守るからこそ改革を重視する。そこでの変化への対応が問われる。

 中島氏はその際の対応のあり方が今日的テーマとしている。
 近代から現代に移る過渡期での今日、自分は間違っているのではないかという前提で議論を深めることがことのほか重要である。
 そこでは、不完全性を自分で認識するから、他者のいうことに耳を傾け、そこでの討議からいろいろな 「英知」 が生まれてくる。
 時間をかけて議論するのは、反対の意見にも理があると思えば、それを取り入れよりよい合意に到達するためである。

 私は、まさにここにこそ、民主主義の真髄があると思う。
氏は、現在の国会の議論が論破を旨としていることを、ほんとうの国会討議になっていない、ここに 「英知」 は生じないと断じている。その通りだ。

 中島氏は、現代の対立軸は保守対革新、右派対左派ではなく、一気に何かを変えようと力を過信する人たちと、自分の限界を直視しつつ徐々に変わっていこうとする人たちの二分法を提案している。
 私の問題意識だと、「対話の文化」 を土台に合意形成できる人たちとできない短絡的な人たちの対立である。残念ながら、今日の国会に 「対話の文化」 は熟成していない。

 さて、ここでの 「対話」 とは、いわゆる 「ダイアログ」 である。
けれども、ダイアログは、自分の思考を正しいと信じ (不完全である自覚を遠ざけ)、それを貫くことを大切にするという人間の (本来の) 姿と相いれない。
 ゆえに、私の大学での探求はこのダイアログにかかわるファシリテーター像だったが、ダイアログの英知に到達する 「対話の文化」 を築くことには大きな壁があった。
私はこのテーマを諦めてはいないが、中島氏の今後の活動を心から応援したいと思う。

 最後に、留意すべき観点を少しだけ書き加えておこう。
ダイアログ研究の原典となるのは、デヴィット・ボーム 『ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ』 である。

 ボームは、対話で 「互いを理解して、信じ合い、物事を共有できる関係を築き上げる」 ことを重視し、それが自然に新しい活動を生んでいる北アメリカの部族の事例に注目している。(p.62)
 私は、その進行にかかわるファシリテーターを模索したが、もちろん、進行役のそもそもの役割は、そうした役割が不要になるようにすることだ。

 次に、ボームは、こうした仲間同士の対話 (ダイアログ) に不可欠なことは、参加者が自分の想定を持ち出さず、保留状態にすることであるという

 自分の想定(意見)には、自分にとって絶対的な必要性が伴っており、通常はこれらが衝突してもの別れになって失敗する。

  そうではなくて、「対話の目的は、物事の分析ではなく、議論に勝つことでもなく意見を交換することでもない。いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それを見ることなのである--さまざまな人の意見に耳を傾け、それを掲げて、どんな意味なのかよく見ることだ。自分たちの意見の意味がすべてわかれば、完全な同意には達しなくても、共通の内容を分かち合うようになる」 (p.79)

 そもそも、ダイアログ (dialogue) とは、「言葉の意味 (logos) を通して (dia) 」 という語源からきている。
 文化とは意味を共有するものだ。ボームは 「新しい文化」 としての対話を提案していた。

 ボームの 「対話のビジョン」 は、どんな完成した成功者と見える人も、内心、自分が見落とした何か別の面があると認識できるからこそダイアログを展望する。対話が求めるものは、(自分を投影した) 意見でなく、(共有すべき) 意味の必要性である。
 それは新たな変化を生む。そうした変化を生む共有のエネルギーは「霊的交わり」にも通じている。

 そしてボームは、物理学者として、二人の天才科学者の逸話を例に、ダイアログの難しさを示唆している。
 かつて、アルベルト・アインシュタインとニールス・ボーアは友人として物理学について活気に満ちた討論をした。その際、アインシュタインは相対論、ボーアは量子論の立場だったがついに相いれることなく終わった。これについてボームが残念に思うのは、討論は互いに正しさを主張し合うもので、ダイアログでなかったことである。

 二人は対話すべきだった。対話をしたならば、二人とも自分の意見を保留し、二人の天才によって、相対論と量子論の対立を超えた新しい理論に辿り着いただろう。
 しかし、当時の科学者たちに、こうした対話の概念はなかった。。

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